この街大スキ武蔵小杉

コスギーズ

武蔵小杉で活躍する人を紹介します!

2023.02.26

大平暁さん

コスギーズ!とは…

利便性や新しさだけでなく、豊かな自然、古きよき文化・街並みもある武蔵小杉は「変わりゆく楽しさと、変わらない温かさ」が共存する素晴らしい街です。そんな武蔵小杉の街の魅力をお届けするべく、この企画では街づくりに携わり、活躍している人をご紹介していきます!

 

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抽象画を観ると、どんな気持ちになりますか?

 

そもそも、抽象画をじっくり眺めてみることはありますか?具体的な人やもの、景色を描いた絵とは違って、それはすんなりとあなたの腑に落ちることはないかもしれません。でも、不思議と惹かれることはありませんか?まるで、誰かの心をのぞき見るように、もっと分け入ってみたい、と思うことはありませんか。自分の心をのぞき見られたように、気恥ずかしいような、うれしいような気分になることはありませんか。

 

今日は、障がいを持つ作家たちの才能を発掘して、世の中に送り出す仕事をしている、studio FLATの大平暁(おおだいらさとる)さんにお話を聞きに行きました。

 

studio FLAT

 

studio FLATは、新川崎の駅から日吉方面に10分ほど歩いたところにある「コトニアガーデン」のSouth棟3階に入る、生活介護事業所です。そこには、障がいのある人たちが通ってきて、めいめいに絵を描いたり、織物をしたり、思い思いのアートを制作しています。

 

その空間の半分はギャラリーになっていて、色とりどりの作品が飾られていました。その中のいくつかの作品に既視感があり、あ、と思わず声を出してしまいました。

白いキャンバスがいくつかのカラフルな線で埋め尽くされ、その上に輪っかのような曲線がいくつも描かれている平面作品が掛かっています。川崎市の別の場所に仕事でお伺いした時に、ひと目見てすっかり魅了されてしまった絵があったのですが、一瞬で同じ人が描いた作品だとわかりました。

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写真:さまざまな作品で賑わうstudio FLATのギャラリー

 

他にも、細かいところまで自動車が描き込まれた絵、夢の中にいるような極彩色のなかに、野球選手や背番号が描かれた絵、深い青の上に大小の点描が花火のように広がっている絵など、まるでニューヨークのポップアートギャラリーに迷い込んだような楽しさがあります。

 

川崎市にこんなギャラリーがあったなんて。わくわくしながら見ていると、ソファで寝ている利用者さんと目が合いました。いままで、そこにいることに全く気がつかなかったので、驚くと同時に、自然にその場に寝そべっていたことになんだか感銘を受けました。この作業所には、とってもいい空気が流れています。

 

オレンジ色のジャージ

 

「こんにちはー」と、言いながら現れた大平さんは、目の覚めるようなオレンジ色のジャージを着ていました。あれ?絵の中から出てきた?と思うくらい、鮮やかな色のジャージです。

中学校の学校指定ジャージでもこんな色はなかなかないですよね。

 

よく聞くと、大平さんがオレンジ色を着ているのには、ちゃんとわけがありました。

 

「studio FLATアーティストの中には、ちょっとした環境の変化に弱い人も多いんです。いつもいる人がいないとか、ここまで送ってくれる車がいつもと違う、というだけで、この部屋に入って来られなくなっちゃうこともある。」

 

「僕も、最近外に出る仕事が多くて、スタジオにいないこともあるんだけど、いつも目立つ同じ色を着ていたら、みんなが『大平さんはここにいるな』と思って安心してくれるし、ここには明るい色が多いので、いなくても、いるような感じになるといいなと思って、昨年くらいからオレンジ色の服をあえて選んで買うようになりました。なかなかチョイスがなくて困るんですけど…」

 

そう言って笑う大平さんの後ろには、確かに大平さんのジャージと同じような色味の絵が掛かっています。

 

川崎が嫌いだった

 

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大平さんは、川崎区の藤崎というところで生まれ育ちました。

「とにかく汚い街で、大っ嫌いでした。早く外に出たかった」と苦笑いします。

「中学校くらいの頃に、地下街のアゼリアができて、少し綺麗になったけど、それでもまだまだ、ゴミやホコリがそこらじゅうに舞っていました。」

 

やっぱり、小さい頃から絵を描いていたんですか?とお尋ねすると、

「実はサッカー少年でした。でも、将来は絵を描いて生きていくというようなことも作文に書いていました。ちょっとイヤなやつだったんですよ」

 

小学校2年生の時に、大平さんが描いた絵がコンクールで入賞しました。自分ではとても気に入っていたのに、空いているスペースに絵を書き足すことを先生が要求してきました。強く反発を感じたものの、「この余白がいいのだ」ということを先生に言うことができなかったという大平さん。そういう経験が、今、障がいを持つアーティストたちに寄り添って、彼らのこだわりを大事にする姿勢につながっているのだそうです。

 

そんな地元で高校卒業まで過ごして、卒業したら芸大を受験するために都内へ移ります。浪人生活を経て、多摩美術大学の絵画専攻コースに入学します。抽象絵画を専門として、大学院まで進みました。結婚をして予備校で絵を教える仕事をしながら、自らも制作をしていましたが、日本は本当にアーティストにとっては世知辛い社会です。もうやめよう、と思うこともしばしばあったと言います。しかし、後述しますが、大平さんの人生を大きく変えるきかっけは、糊口をしのぐために従事していた絵画講師の仕事の中にこそあったのです。

 

結婚して川崎に戻り、転機が

 

川崎を出てからほとんど戻ることはなかったので、ラゾーナができたことも知らなかった、という大平さんですが、結婚して子どもができると、保育園に入れる場所を探すうちに結局川崎へ。幸区小倉の夢見ヶ崎動物公園の近くに引っ越しました。大人になって抱いた川崎への感想は「子育てしやすく、住みやすかった」と大平さん。

 

近隣に、障がいのある人たちの作業所が新たに立ち上がる時、自立支援の一環としてアートを教えて欲しい、という依頼があり、大平さんはその施設の創作班に入り、知的障がいを持つ利用者たちに絵を教えることになりました。とはいえ、今まで障がいを持つ人たちと仕事をしたことがなかったので、あまりピンとこず、すぐにやめるだろう、と思っていたそうです。

 

しかし、そこで運命の出会いがあります。入所者のなかに、大平さんが生唾を飲み込んでしまうほどに「上手い」アーティストがいました。

その人、下川さんのことを話す時、大平さんはとてもうれしそうな、楽しそうな顔をしていました。

 

「どんどん絵を描けるんです。その人が新聞みたいなものを描き始めました。モジャ公新聞、という名前で…。彼が描いた下絵に僕がペン入れをして仕上げていくんですけど、すごく細かいところまでこだわる人だから、僕が描いたものが少しでも気に入らないと全部修正ペンで消されちゃうんです。鍛えられました。」

 

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写真:モジャ公新聞

 

「そのプロセスの中で、彼は何を描きたいんだろう、本当に描きたいと思っているのはどういう光景なんだろうと考えるようになったら、いつのまにかすごく信頼されるようになりました。言葉ではわかり合えなくても、一緒に作品を作っていると、いま通じ合っているな、と感じることができました。」

 

やがて、下川さんが一人で作品を創るようになったので、大平さんはその作品をプロデュースして、当時話題になっていた「エイブル・アート」として売り出したいと思うようになりました。そうすれば、彼が自立したアーティストとして羽ばたくことができるかもしれない。

それこそ当時は、エイブル・アートはまだ一部で聞かれるようになったばかりだったので、大平さんも知り合いのギャラリーの仕組みを聞きに行ったり、そういうことをしている先輩に教えを乞うたりと、勉強をしていました。尊敬できるアーティストと一緒に目指すべき目標が見えてきた、と大平さんが心を躍らせていた矢先の2010年、下川さんは持病のてんかんによって、帰らぬ人となってしまいました。まだ21歳だったそうです。

 

喪失を乗り越えて

 

天恵のような才能を持つ若いアーティストが、その作品を自分以外の多くの人に知られずに夭折してしまったことが、大平さんにとってどれだけの衝撃だったかは、その後の大平さんの活動の足跡を見ていれば推し量れました。大平さんは、語る言葉を持たずにいるアーティストたちを見つけ出し、彼らの作品の魅力を伝えるということに、本格的に乗り出します。

 

これまでは、施設のいち活動として行っていたアートの制作を、大平さん個人のプロジェクトとして、ひとりひとりのアーティストのプロデュースをすることにしました。studio FLATの始まりです。

 

「僕は、抽象画を専攻していた人間だし、彼らの描くような絵を描くことはできます。ですが、技巧のある人間がこれを描くのと、彼らの描く絵がそういう風になるのとはまったく違う。」

 

自らの才能に気が付いていない、純粋な絵心の発露。

ああ、大平さんが先程「自分は絵が描けると思っていた」と幼少期を振り返り「イヤなやつだったんですよ」と繰り返していたのは、ひょっとしたらこの純粋さと比べていたのかもしれません。

 

彼らの絵を見ていると、だれでも自分自身の不遜さに気づかされる瞬間があります。彼らの絵ともっとも多く近くで触れている大平さんだからこそ、誰よりも深く真摯にそのことを感じているのかな、と思いました。

 

「ピュアなものは、ピュアさゆえにそのままではだめなんです。作品として昇華させなければ成立しない。よく、アウトサイダーアートや、障がい者アートは、手を加えちゃいけないと言われることがあります。でも、よく考えてみると、健常のアーティストでも、まったく全てのプロセスを一人でやっているなんてことは、そんなにないですよ。客観的に判断してくれる人が近くにいてこそ、強い作品になるんです」

 

自分たちのアトリエをつくる

 

それまでは、施設の食堂の後ろのスペースが彼らの制作場所でした。もっと集中して制作ができる場所を、ちゃんとしたアトリエを作りたい、と大平さんは環境づくりのために動き出します。

 

2018年の春に、北加瀬に保育園や高齢者施設、店舗、賃貸住宅が一体になった「街のコミュニティひろば」というコトニアガーデンができました。そのコンセプトの通り、交流会が盛んに開かれ、大平さんもそういった場に積極的に顔を出して、自分のやっている活動を伝えるようになりました。やがて、開発者側の人たちと知り合うようになり、ちょうどコトニアガーデンの病院棟の3階に入る事業者を探しているという情報を知ります。

 

「ギャラリーを併設したかったので、人が集まってくる場所で、やりたかったんです。一度は別の人がもう決まってしまったということであきらめかけたんですが、その後で前の話がまとまらなかったのか、うちに話をいただいて…」

 

やりたいことを、根気よく人に伝えることってとても大切ですね。

 

コトニアガーデンは実際、大平さんたちの活動にうってつけの場所でした。子どもからシニアまで、徒歩圏内にいろいろな人がいます。つねに保育園や学童、老人ホームやフィットネスクラブなどでWSや交流会が開かれ、そのコミュニティの中で、studio FLATのアーティストたちは、障がいがある人というよりは、絵の上手なお兄さん、お姉さんとして子どもたちから尊敬されるようになりました。敷地内には畑があり、そこで育てたとうもろこしを、学童の子どもたちが、FLATにもってきてくれることもありました。

 

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写真:コトニアガーデンでの交流

 

ギャラリースペースも当然併設されたのですが、こちらはコロナ禍のため、誰もが気軽に出入りできるスペースとしての運用がまだできていません。ですが、2020年5月にはギャラリーをVRで撮影し、ネットギャラリーとしてオープン。話題になり、遠くからも多くの人が彼らの絵を購入してくれました。

 

売れっ子作家もぞくぞく

 

そうやって、作品が知られるうちに「売れっ子作家」も生まれました。熱海のアートフェスから八十号の絵のオーダーがあったり、県知事の執務室に絵が飾られたり、フェリシモの商品のテキスタイルとして採用されたりと、その活躍は華々しいものです。

 

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その一因には、恵まれたアトリエで制作できることがある、と大平さんはいいます。

 

「確実に、ここにきてからアートの質があがりました。もともと、絵が好きだったわけでもなく、事業所の空きがあったから入って来た人も、アーティストとして開花してしまったパターンもあります。パネルやキャンバスになると、自分の絵がどこかで飾られるんだ、というスイッチが入る。人に見てもらえるんだな、という意識が高まります。自分の絵の前で立っているときにも、誇らしげにしています。ギャラリーで見せて終わりじゃなくて、所有してもらうところまではやりたい。」

 

ECサイトで作品を販売するというのはわかるのですが、それだけではなくNFT(転売されても作者にお金が入るしくみ)で販売していたり、マンションを管理する不動産会社と契約して、サブスクサービスを提供したり、と聞くと、大平さんの隠されていた本領が、FLATのアーティストとのコラボレーションで遺憾なく発揮されているのを感じます。

 

「彼らといると、いつも新しいアイディアが浮かぶんです。そういうのはすぐに形にしたくなっちゃうんですよ」と大平さん。

 

アートフォーオール -改めて得る自由な発想

 

そんな大平さんのアイディアの一つに、「さをり織り」を使った巨大アートがあります。絵よりも他のもののほうが得意な人もいるので、いろいろな作業ができるといいな、と思っていたときに、地域のロータリークラブから織り機をもらいました。従来、作業所でもよく使われている誰でもできるものではありましたが、その誰でもが関われるというところに、まさにさをり織りの魅力があるのだと大平さんはいいます。

 

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写真:SaoriArt Projectで川崎駅北口を飾ったさをり織り

 

「絵をみんなで描くというのはとても難しいものですが、誰がどんなタイミングで関わっても、ひとつの反物ができるというのはすごく面白い。」

 

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コトニアガーデンのイベントのときに、その織り機をジェクサーやタリーズにキャラバンして、みんなで織りました。ハギレを使うので、材料の入手経路もSDGsに力を入れる地元の企業とのタイアップでうまく回りました。サッカー少年だった大平さんが切望していたフロンターレとのコラボレーションも実現しました。

 

「さをりをやってる事業所はたくさんあります。みんなそれを小さなポーチなどにして100円、200円で売っているんだけれども、わかる人がキュレーションをすればその価値は格段にあがるんです。みんな、どんどんやってみてほしい。必ず『これはいい』というものがあるはずだから、継続してやっていけば作品になります。」

 

それが、「障がい者アート」という名前ではなく、普通に「アート」と呼ばれることを目指す大平さんが最初にしたことだったのですね。

 

「好きなことを思うようにやっていいんだ、と彼らとの体験を通じて思えるようになりました。僕は、絵画科を出ていたので、絵を描かなきゃいけないと思い込んでいたんです。絵画にこだわらず、自分がやりたいことをやればいいんだと思えました」

 

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今は、さをり織りから出る廃材を使った作品を創っているという大平さん。アートとテクノロジーの融合した新しい分野にも食指が動きます。

 

「障がいのある人とAIが何かを一緒にすることって意義があると思うんです。ワークショップを重ねて、真似しづらい部分を汲み取るようなことができないかと…いずれはAIが自分から彼らにお金を払うようになるんじゃないでしょうか」

 

大平さんの自由な発想力は翼を得ていままさに羽ばたこうとしています。それは、地道に続けている自分自身の創作活動にもいい影響を与えてくれているそう。

 

「常に創作物に囲まれているというのはやっぱり幸せだし、自分が嫉妬できるアーティストがここにはたくさんいるんです。すごいのができたときには鳥肌が立ちますよ。そして、そういう思いを共有してくれるスタッフがちゃんといるのも、このスタジオの良さなんです。一人ひとりのアーティストの良さをちゃんとわかって、僕だけじゃできない部分を引き出してくれる」

 

アーティストが作品を作る過程は孤独なものです。

ときに自分自身の心の闇を見つめる作業にもなり、その暗さが作品として昇華されるアーティストもいます。ですが、FLATのアーティストの作品を観てください、鮮やかな色彩を心のおもむくままに真っ白なキャンバスに置いていき、流れるメロディのように淀みなく、生命の躍動を表現したような作品ばかりです。そこには、迷いや陰りはありません。自分の置かれた環境への信頼、作品を観る人への信頼がなければ、こんな作品は創れません。

 

それは、彼らの作品を認めて、はばたく翼をつけてくれた最初の観者=大平さんとの信頼関係がなせる業に違いありません。

 

ひとことでいえば、FLATのアーティストの作品は、大平さんのその名のとおり大きくてフラットな愛から生まれているのです。そしてそれらは、観る人の心を惹きつけて、張り詰めた日常からしばし解放してくれる、暖色をたたえていつも輝いています。

 

<プロフィール>

NPO法人studioFLAT理事長大平暁(おおだいらさとる)

多摩美術大学絵画専攻修士課程修了

障がいのある作家たちの才能を発掘し、広く世に出す手伝いをしている。2020年1月、コトニアガーデン新川崎に拠点を開設する。精力的に活動する背景には、いまは亡き自閉症の作家との出会いがきっかけとなっている。

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ライター プロフィール

Ash

俳優・琵琶弾き。「ストリート・ストーリーテラー」として、街で会った人の物語を聴き、歌や文章に紡いでいくアート活動をしている。旅とおいしいお酒がインスピレーションの源。

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カメラマン プロフィール

岩田耕平

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25歳からの14年間で1万人を超える家族をフォトスタジオで撮影。15店舗のフォトスタジオで撮影トレーナーを務め、個人ではカメラマンとして人と人をつなぐ撮影を展開。

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