笹田恵子さん
コスギーズ!とは…
利便性や新しさだけでなく、豊かな自然、古きよき文化・街並みもある武蔵小杉は「変わりゆく楽しさと、変わらない温かさ」が共存する素晴らしい街です。そんな武蔵小杉の街の魅力をお届けするべく、この企画では街づくりに携わり、活躍している人をご紹介していきます!
「武蔵小杉のタワーマンションに住んでいる人ってセレブなの?」
「どんな生活をしているの?」
本日、そんな疑問に答えてくれるのは、笹田恵子(ささだけいこ)さん。DJ KeikoとしてコミュニティFMのラジオ番組「コスギスイッチON!」のパーソナリティを務め、コスギフェスタなど、街のさまざまなイベントのたびにマイクを握ってステージに立っている、街の有名人。そういう意味では「セレブ」なのかもしれません。今日は、そんな恵子さんにロックオン! 武蔵小杉での生活のこと、人を魅了してやまないその笑顔の秘密を教えてもらいました。
その素顔を知れば、前よりもずっと笹田恵子さんという人に、そして武蔵小杉という街に親しみがわくこと、請け合いです!
笑顔の原点は、アルバイトの時に会ったおじいさん
「私、家が裕福ではなかったので、とにかく働いて家計を助けたかったんです。」
恵子さんの口から飛び出したのは意外な言葉でした。物腰が穏やかで、品のあるたたずまい。いつも綺麗な色のワンピースを着て、背筋をすっと伸ばし、愛犬の散歩をしている恵子さんは、余裕を持った大人の女性に見えていました。どのような困難に見舞われても、ポジティブに前を向いてこられたのは、ご両親の影響と、若い時にしていた接客のアルバイトの経験なのだといいます。
「若い女性だし、新宿歌舞伎町あたりが手っ取り早い、なんて思っていたんですが、それだけは絶対にやめなさい、と母親に言われました。それで、ファミレスでアルバイトすることにしたんです。昼間だとあまりお金にならないので、歩いて通える場所で、深夜の時間帯に働きました。」
恵子さんは、毎日深夜まで働きました。高校を卒業する時に夢見ていた職業は、飛行機の客室乗務員(その頃は、スチュワーデスと言いました)。そのための勉強をする専門学校に通う費用は自分で稼がなければいけません。夢に向かって働いている、という気持ちがあり、寝る時間が少なくなっても辛くはありませんでした。
「若かったし、4時間も眠れば何でもできました。その時間帯は面白いお客様もたくさんいましたね。アルバイト同士も仲が良かったです。毎日来てくれるおじいさんがいて、必ずほうれん草のソテーとコーヒーだけを頼むんです。ある日私が接客したら、その人が『僕はね、あなたの笑顔を見ると、1日の疲れが吹っ飛ぶんです』って言うんです。」
自分の笑顔で幸せになってくれる人が一人でもいるのならば、ずっと笑顔で居続けたい、と恵子さんは思いました。どんなに辛いことがあっても、それは内にとどめて、自分は笑顔で居続けるようにしよう、と。
CAの夢から、銀行員へ… 天職に出会う
当時、女性の憧れの職業だった客室乗務員。高卒、専門学校卒の学生を採用している航空会社は1社のみという狭き門で、なんとそこでの倍率は200倍だったそうです。別の会社に落ちた大卒の学生たちも詰めかける、という熾烈な競争の中、夢を叶えることはできず、涙を飲みました。そして、学校が紹介してくれた香港上海銀行に就職します。
「通っていたのが、英語の専門学校の秘書コースだったので、英語が使えて、幅広く対応ができたのはラッキーでした。CAになりたい気持ちはしばらくあったので、勤めてからもシンガポール航空の試験にチャレンジしたりして。」
そんな恵子さんは、やがて同僚たちによって、その喋りの才能を見出されていきます。
「当時、銀行では社員が参加するクリスマスパーティをホテルでやっていました。その司会を担当したことで、同僚たちから結婚式の司会を頼まれるようになったんです。多い時は毎月のように結婚式で話していました。すごく楽しかった。新郎新婦が喜ぶ姿、ご両親が泣く姿に感動して、司会なのに泣いちゃうことも。人と人とのふれあいを感じることができて、ああ、私はやっぱりこういう風に、誰かにダイレクトに語りかけ、その反応が感じられるお仕事が好きなんだと思いました。」
その後、26歳で恵子さんご自身も結婚。一年後にはお子さんを授かり、銀行を退職します。お相手のお仕事の関係で住んだ色々な土地での子育ても、恵子さんにさまざまな人とのふれあいと、経験を与えてくれたそうです。
子育てを通じて、人付き合いのコツを知る
結婚してすぐ、川崎市の幸区で子育てをしました。子どもの通う幼稚園では、保護者同士が価値観の相違から、ギクシャクすることもあったといいます。
「最初は私も愚痴を言っていたんです。なんでこの人はこんな言い方をするんだろうとか、嫌な感じがするとか。でも人には色々な側面があって、何のために頑張っているかはそれぞれ全然違うっていうことを教えてくれた人がいました。」
この人とは、こういう部分では共感し合えるけれど、こういう部分では重なり合わない。でも少しだけでも重なるところがあるから、つながっている。大きさも色も全然違う円と円が少しずつ重なって、コミュニティはできている。そこにいる理由は人それぞれで、他の人に見せていない面が大部分。その人が人知れず頑張っていることを、知ることができるくらいには仲良くなりたい。そう感じた恵子さんは、まず自分から心を開いて、周りの人に声をかけていくことにしました。
その後、ご主人の転勤で大阪に引っ越した恵子さん、PTAの旗当番をしている時に印象的な出来事がありました。
「声をかけてもいつも下を向いて無言で歩いていく子がいたんです。とても人気のある洋菓子店の娘さんだったので、ご両親が忙しすぎてひねくれているんじゃないかと、周囲のお母さんたちから噂もされていて。私は気になって、自分が当番の時は信号を待っているその子に、おはよう、と声をかけ続けました。」
何度無視されても、その時ごとにトーンを変えて話しかけてくる、誰かのオカン。恵子さんの姿がその子にどう映ったのかはわかりません。それでも何度もそんなことが続いたのちのある朝、彼女は小さい声で「おはようございます」と恵子さんに返したのです。下を向いたままで。その時恵子さんは思いました。あ、やっぱりこの子は悪い子じゃなかった。ただ恥ずかしがり屋で、挨拶するタイミングが掴めなかっただけなんだ、と。
恵子さんとのやりとりを繰り返し、やがて彼女は顔をあげて挨拶してくれるようになりました。この経験を経て、恵子さんは誰かに挨拶をしたときに、もしも返事が返ってこなかったとしても「いま、たまたま自分の声が小さくて届かなかったのかも」「考え事をしていて聞こえなかったのかも」と思うようになり、以前にまして積極的に人に声を掛けられるようになったのです。
そのポジティブな姿勢は、その後横浜のいずみ中央を経て、武蔵小杉のマンションに移ってきても変わらず、恵子さんの行動指針となりました。
「娘たちが年頃になってきたので、学校に通うのに便利で、明かりがしっかりついている安全な街がいい、ということで武蔵小杉を選びました。彼女たちにも徹底して、挨拶だけはしなきゃだめ、と教えました。最近はいろいろな人がいるから無闇にコミュニケーションすると危ない、なんて言われるけれど、それならせめて自分の住むマンションの中で会った人には、必ず声をかけようって。エレベーターに乗り合わせたら、こんにちは、何階ですか?って。 声を掛けられたくない人もいるのかもしれないけれど、こういうやりとりで心を開いてくれるひとがいるかもしれない。」
恵子さんは、住んでいるマンションで醤油や塩など調味料の貸し借りをすることもあるそうです。
「すぐそばにスーパーやコンビニもあるし、買いに行けばいいじゃない、って思うかもしれませんが、それを理由に話ができることが大切なんです。人間は持ちつ持たれつ…って私の母がよく言っていたんです。ありがとうね、すみませんねっていう気持ちでお互いを思いやることが基本ですよね。タワーマンションって、縦になった長屋みたいなものと思っていて。昔の長屋みたいな付き合いがしたい。」
タワーマンションが長屋! そう言われれば、そんな気もしてきました。壁を隔ててたくさんの人が一緒に暮らす、縦に長い大きな長屋。仲良くしたら、新しい落語の世界が開けてきそうです。
コスギフェスタをきっかけにコスギの顔に ーDJ Keikoの誕生
そんな恵子さんですから、マンションの理事も積極的に引き受けます。コミュニティ委員というまさにうってつけのポジションで、マンションのビンゴ大会の司会をすると、たちまちその流暢なトークが評判になり、当時武蔵小杉の街に、新旧の住民をつなぐお祭りを創りたい、と活動していた人たちから「ぜひコスギフェスタの司会を」とオファーが来ました。
まさに、恵子さんが培ったさまざまな経験が花開く時でした。
初期の頃のコスギフェスタは勢いがありました。まさに、街ができていくその区画に合わせて、そのとき空いている部分を上手に使い、毎年少しずつ姿を変えてお祭りが行われました。ハロウィーンの時期の開催ということで、子どもたちが仮装をして練り歩く街の中心にはいつもステージがあり、恵子さんの笑顔がありました。
2016年には、コスギフェスタを運営する団体が、コミュニティラジオ局である「かわさきFM」で武蔵小杉の今を発信する情報番組「かわさきショウタイム コスギスイッチON!」を開設するということで、そのパーソナリティに抜擢されます。夢だった CA Keiko は実現しなかったその代わり…、遥かにパワーアップしたDJ Keikoが生まれたのです。
「最初はドキドキでした。ラジオはステージと違って相手の顔が見えない、というのも緊張しますよね。でも、一緒に番組を担当してくれる方が熟練のMCだったので、胸を借りて楽しく喋らせていただいて…そのうちだんだんと、自分の『スタイル』ができてきました。」
DJ Keikoのスタイル、それはゲストの笑顔と本音を引き出すこと。
「自分自身はあまり主張したいことがないけれど、誰かの主張や頑張っていることを聞くのは楽しいし、心からすごいなと思うんです。どんなに偉い人や有名な人がゲストでも、無名だとしても、聞くスタンスは一緒です。短い放送時間の間に、楽しく自分のことを喋ってもらうために、うんと集中して話を聞きます。」
コスギスイッチON!の神回はいつですか? と以前お聞きした時に「毎回が神回! ゲストが終わった後に楽しかった、と言ってくれたら、神様に見える。」と言っていたのを思い出しました。そうです、恵子さんのスタイルは、一貫して目の前にいる人を笑顔にすること。DJ Keikoがゲストを笑顔にし、ゲストが楽しく話すことで、その活動や魅力が視聴者にいきいきと伝わる。それが「コスギスイッチON!」がコミュニティのラジオ番組として6年間も続き、愛されているからくりなのでした。
この街に住めて、幸せ
武蔵小杉に住んで13年が経ちます。恵子さんならば、どこの街に住んでもきっと同じようにコミュニティを築き、活躍の場を見つけ、喋りによって人と人をつなぐ、ということを成し遂げていたことでしょう。けれども私たちは知っています。偶然は、必然なのだということを。
「ここはニュータウンじゃなくて、古くから歴史もある街が、新しく姿を変えようとしていたんです。外から入ってきた人も、住んでみたら楽しいから、この街で何かをしたいという思いを持っていて、それに答えようとする、古くからの住民がいて。」
恵子さんがコスギフェスタに関わった頃は、まさしくそうやって、新旧のコミュニティが入り乱れ、さまざまな人がそれぞれの思いを抱えて、新しい武蔵小杉の形を創っていこうとしていたときでした。新しい商業施設ができることは、街にとっては発展や賑わいにつながります。けれども、昔ながらの商店街はお客さんをとられてしまうかもしれない、と危惧します。その両者をつないで、それぞれの思いをないがしろにせずに、再開発を進めていくのには、古くから武蔵小杉にいる人たちの中にも、ひと肌もふた肌も脱いで頑張った人たちがたくさんいました。商店街と再開発の間に立って尽力したキーパーソンが、昨年ご逝去されたことに話が至ると、恵子さんの目尻に涙が浮かびました。
「この土地を心から愛していて、わたしたちみたいな新参のタワマン住民も受け容れてくれました。そんな方々がいてくれたからこそ今こういった形で、街があるんです。町内会のおじいちゃんやおばあちゃんとつながることができて、昔の話も聞けました。それは、わたしのような人間が伝えていかなくちゃいけないな、と思っています。そのありがたさを、たくさんの人に伝えていきたい。この街に愛着をもって『住めてよかった』って心から言えるようになったのも、あの方たちのおかげなんです。」
花は、置かれた場所で咲く、というような言葉がふっと思い出されました。恵子さんはいつでも、与えられた居場所で、自分自身が微笑みをたやさず、周囲の人を幸せにするということを実践してきました。その先にたどり着いたこの街で、地に根をおろして、周りの人たちからも笑顔という養分をもらって、大輪の花として咲きました。天職ともいえる、声で人と人をつなぐことをライフワークにして、街をあかるく照らしています。
「マンションにも、街にもかっこいい年上の女性がいっぱいいるんです。私も、70歳になっても8センチのヒールを履いて、街を元気に歩いていたい。あのひと、まだ喋ってるんだ、元気だねって話題になるような、伝説のDJになりたい。」
きっと、そうなりますよ。もう見えています。
街の子どもたちが成人して、武蔵小杉にもどってきたとき、こすぎコアパークのイベントで颯爽と喋っているDJ Keikoを見て「あ、わたし小さい頃あの人にいつも『おはよう』って声かけられたの。」「俺も知ってる。うちの小学校のイベントにきてくれて、俺が得点した時に名前をコールしてくれたんだ。」 なんて、話している姿が。
<プロフィール>
笹田 恵子さん
フリーアナウンサー、ラジオDJ、イベントMC。武蔵小杉在住。コスギに欠かせない司会として、さまざまなイベントのステージに立つ。華やかなルックスと落ち着いた声で司会をする一方で、武蔵小杉・川崎の今を発信するかわさきFMのラジオ番組「かわさきショウタイム コスギスイッチON!」のパーソナリティーとしては、酒好き歌好きの趣味をいかんなく発揮し、川崎周辺の街の美味しい店情報をリスナーに提供している。
かわさきFM「かわさきショウタイム コスギスイッチON!」
毎週木曜日14:00〜15:00生放送中
ライター プロフィール
ASH
ライター業のほか、琵琶を弾き歌い、語り継ぐことをライフワークにする俳優。旅と出会いとおいしいお酒がインスピレーションの源。
カメラマン プロフィール
岩田耕平
25歳からの14年間で1万人を超える家族をフォトスタジオで撮影。15店舗のフォトスタジオで撮影トレーナーを務め、個人ではカメラマンとして人と人をつなぐ撮影を展開。