この街大スキ武蔵小杉

コスギーズ

武蔵小杉で活躍する人を紹介します!

2023.09.17

木月キッチン店主 時田正枝さん

コスギーズ!とは…

 

利便性や新しさだけでなく、豊かな自然、古きよき文化・街並みもある武蔵小杉は「変わりゆく楽しさと、変わらない温かさ」が共存する素晴らしい街です。

そんな武蔵小杉の街の魅力をお届けするべく、この企画では街づくりに携わり活躍している人をご紹介していきます!

 

 

木月キッチン店主 時田正枝さん

 

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今日は、武蔵小杉のお隣、元住吉の街にやってきました。

武蔵小杉に住むことを考えた時に、元住吉を検討した人もいるのではないでしょうか?

(私は、そうでした。)

 

西側には、ブレーメン通りという特色のある商店街があり、その同じ通りの踏切を挟んで東側には、オズ通りがあります。どちらもお祭りのようにいつも賑わっている、活気のあるエリアです。

路面店が多く、学生からお年寄りまで、あらゆる世代の人たちが買い物がしやすいのもいい点ですね。

 

オズ通りを綱島街道の方へ少し進み、路地を曲がると、木月キッチンという食堂があります。

今回ご紹介するのは、木月キッチンの店主・時田正枝さんです。

 

 

木月キッチン

 

私が木月キッチンに初めて伺ったのは、2017年春のこと。

正枝さんが、木月キッチンを開店して5年目となる節目の年でした。

ずっとやりたいと考えていた子ども食堂を始め、発信をしていたのが目に留まり、川崎経済新聞の取材でお話を聴きにいったのです。

 

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(写真:木月キッチン店主 時田正枝さん)

 

その時初めて食べた木月キッチンの玄米ご飯の美味しさに衝撃を受けました。

鶏肉を使ったヘルシーな主菜に、野菜がふんだんな副菜。

味付けは薄めで、食べ応えがあり、お腹がいっぱいになって心から満たされました。

その時、正枝さんが言っていた言葉も印象的でした。

 

「マクロビとか、オーガニックではないんです。

あんまり厳密にやると大変なので、そういうのは専門のお店に任せて、私は自分の周りの人が、少しでも健康でいるために、おいしいものが食べられる場所をつくりたい、そんな気持ちでお店を始めたんです。」

 

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(写真:週替わりのメイン2種と野菜で作った惣菜からなるベジプレート)

 

その時に産声を上げた子ども食堂「木月子どもキッチン」は、コロナ禍中もさまざまな人たちの協力を受けて続き、開催回数も増やして今やこの地域に欠かせない存在となっています。

 

そんな時田さんの、幼少期から今までのお話を聞かせてください、とお願いしたら「わたし、しくじりばっかりなんですよ。」と笑いつつ、料理を作りながら、語ってくれました。

 

 

大家族の中で「良い子」として振る舞った

 

時田正枝さんは、元住吉生まれ・元住吉育ち。ご実家は、この地域で工務店をしていました。

両親とも忙しく、住み込みの大工さんたちも一緒に暮らす大家族。

弟が2人いる長女のため、小さい頃から台所仕事は慣れっこでした。

「工務店の長女」がアイデンティティで、いつも「しっかり者の良い子」として振る舞っていました。

 

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(写真:玄米ご飯を盛り付ける正枝さん)

 

「笑い声が絶えない家で、親や親戚には大切に育ててもらいました。

でも、あんまりプライバシーのない家だったので、ひとりになるために、よく本の世界に逃亡していました。」

 

正枝さんが特に好きだったのはモンゴメリーやサリンジャーなどの翻訳文学。

初めての海外旅行で東南アジアを巡った時、まだ貧しかったタイの子どもたちの状況にショックを受けました。

言葉が通じなかった経験が大きく、英語を学びたいという思いを強くし、英語系の専門学校に進学します。

 

 

自分と出会い直す旅へ

 

専門学校では、新しい友人がたくさんできました。

その中のひとりに言われた言葉が、正枝さんの人生を大きく変えることになります。

 

「正枝って空っぽだね、って言われたんです。

人当たりがよくて優しい女の子、という仮面をかぶって生きているのを見抜かれたんですね。

本当は心を無にしていた、自分で自分の右足と左足のどちらを出しているかもわかっていなかったと思います。」

 

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(写真:木月キッチンのベジプレート)

 

「18年間、ずっと自分をそういう殻に閉じ込めて生きてしまったので、自分を認めてもらえず辛いこともあった幼少期が内面に残っていて、改めて自分自身に向き合う必要性を感じました。」

 

正枝さんは、全てを壊して一から自分を成長させるために踏み出していきました。

居心地のいいところに身をおくのをやめようと専門学校を中退し、さまざまなアルバイトをしながら信頼できる友人たちとの語らいの中で自分自身を探す日々を送りました。

 

「とにかく、今までの自分を知らない人たちに出会いたくて、これはもう海外に行くしかないなと思って語学留学でオーストラリアに行ってみたらとっても楽しかったので、次は本気で住んでしまおうと心に決めたんです。」

 

日本に戻ってからは、再びオーストラリアに行くための計画を立てました。

周囲を納得させる理由がないといけなかったため、憧れていたフォトジャーナリストを目指して、写真を学ぶことにしました。

折しもバブル経済の最盛期だったため、会社員に加え、ホテルのコンパニオンとのダブルワークで学費と生活費を貯めました。

 

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(写真:語学学校で仲良くなったタイ人の友人と)

 

「あの頃、フォトジャーナリストといえばアメリカなんです。

マグナム・フォトのニューヨークやロンドンでもなく、オーストラリアっていうのは、ただ海外に逃げたいだけだなというのは周りの大人はみんなわかっていたと思います。それでも、想いを通して留学しました。」

 

 

オーストラリアで

 

州立のコミュニティカレッジを経て、ロイヤルメルボルン工科大学の写真学科へ入学した正枝さん。

しかし、最初の半年でこれはものにならないと思ったそうです。

 

「まだデジタルじゃなかったので、暗室に入って、プリントをすると作品がゆっくりと印画紙に浮かび上がってくるんです。

その瞬間に興奮と喜びを与えてくれるような友人たちの優れた作品と自分の写真の違いは一目瞭然でした。

同じものを撮っているのに…と赤いライトの下で呆然としていました。」

 

プロとして写真で食べていくことには早々に見切りをつけましたが、正枝さんの留学の真のテーマである「自分自身を育てること」にこの環境はうってつけでした。

同級生には、舞台俳優、美術家、そして写真のスペシャリストとあらゆるジャンルの「かっこいい人」がいました。

何の忖度もなく、自分自身が「美しい」と思えるものに出会って心が動いた時、人は自分自身を再発見できるのでしょう。

 

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(写真:オーストラリアで正枝さんが撮影したポートレート)

 

光と影がくっきりと浮き出る、表現芸術の世界に身を置いたからこそ、正枝さんは自分自身の輪郭を認識できるようになりました。

異文化に溶け込む必要はない、自分自身として、自分の内側にいつも新鮮な空気を取り入れていけばいい。

 

正枝さんは、様々なバックグラウンドを持った人々に会うため、オーストラリア大陸を1人で旅行しました。

アボリジニの迫害について調べ、大学の課題では難民の女性たちの写真を撮りました。

陽光の降り注ぐ明るく大きな国の暗い部分を見ること、そして、権利を奪われ、影の部分にいる人たちに光を当てること。

どちらも、正枝さん自身の生涯のテーマにつながっていく活動でした。

 

 

揺れ動きながら

 

その後も、正枝さんは自分の心の揺れを見つめ、時には抗い、時には素直に従いながら、山あり谷ありの人生を歩きます。

 

「留学する時に弟が家庭を持って、家のことに対するしがらみからは楽になったんですが、父が亡くなった時は、やっぱりショックでした。

反動のようにその時付き合っていたオーストラリア人と結婚をして、彼の仕事の関係で京都に住むことになりました。

そこでは、派遣で働きながらブライダルフォトの仕事をしていましたが、色々と大きなミスもしました。やっぱりプロ意識は足りなかったですね。

数年で、結婚の方もうまくいかなくなり、その人とはお別れして、元住吉に戻ってきました。34歳の時でした。」

 
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(写真:元住吉駅の前で)

 

派遣で働きながら、再び自分自身の心と対話する日々。

 

「子どもの頃から大人数の料理を作っていた自分なので、料理ならそんなに肩肘張らなくてもできると思っていました。

『できる』から『やりたい』に変わったのは、派遣された仕事場で出会った今の夫がアトピーを持っていて、普段の食事を意識し始めた時です。

野菜たっぷりで身体にいい食事ができる場所が周囲になくて、それなら自分が作りたいと思うようになりました。」

 

そんな正枝さんの足を一歩前に踏み出させたのは、東日本大震災でした。

 

「人生何があるかわからない。やりたいことはやっておかないと。」

 

夫と出会った職場では長く勤めさせてもらい、開業資金もある程度溜まっていたという正枝さん。

地縁のある元住吉で暮らしていたことも幸いして、幼なじみのお母さんがやっていたスナックを引き継ぐ形で物件を借りることができました。

 

 

地域の食堂

 

そして、木月キッチンが生まれました。

 

「地域の食堂でありたい、という思いから、地名の『木月』を入れました。

身内が工務店ですから電気工事、内装工事と知り合いの手を借りながら、なんとかオープンに漕ぎ着けました。

働いていた会社の同僚たちも心配して手伝いに駆け付け、変わりばんこにカウンターに立ってくれたんです。」

 

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(写真:木月キッチンの外観)

 

カウンター8席だけの小さなお店。

しかしそこは、正枝さんが自分自身を表現することができる、安心して呼吸のできる居場所でした。

 

客足は最初から順調というわけにはいきませんでしたが、徐々に存在を知られるようになり、会社帰りのお客さんが寄ってくれるようになりました。

野菜中心のメニューのため若い女性客に人気が出るのかと思いきや、一人暮らしのお年寄りや忙しい会社員の男性が健康に気を遣って食べにくるというパターンもとても多かったと当時を振り返ります。

 

「最初はひとりでやるつもりだったのですが、すぐに無理だとわかって友人の子どもや姪っ子にアルバイトで働いてもらうようになりました。

正枝のところだと安心して働かせられると友人たちが子どもをアルバイトに送り込んでくれるので、募集しなくても済んだんです。

5年目にフルタイムで働きたいと言ってくれるスタッフが現れたので、前からやりたいと思っていた子ども食堂を始めることにしたんです。」

 

私が木月キッチンを訪れたのは、まさにこのタイミングでしたね。

 

「木月こどもキッチン」は、正枝さんがずっと温めていた構想でした。

かつて東南アジアで見かけた貧しい子どもたちの姿や孤独を心の中に秘めていた幼い頃の自分自身が、正枝さんの背中を押していました。

「私の居場所は、誰か他のひとの居場所にもなれるかもしれない」

 

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(写真:木月子どもキッチンは多くのボランティアスタッフ、地域の方々からの寄付で支えられている)

 

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(写真:木月こどもキッチンのお弁当)

 

 

コロナ禍がもたらしたもの

 

そして、誰にとっても通らずにはいられなかったコロナ禍がやってきました。

それまでまったく気がついていなかったということですが、正枝さんの足にも疾患が見つかり、長くキッチンに立つことは難しくなりました。

タイミングが良かったのかどうか、忙しく働いて充実していた正枝さんの時間も強制的に止まることになりました。

手術のために休業をした後、営業日を週2日に変更しました。それによって得られたものがあると言います。

 

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(写真:元住吉の街の中で)

 

「子どもキッチンの枠組で活動する中で、誰かが支援を必要としているかが見えてきたんです。

シングルで子育てをしている人たちと、養護施設を出た人たちです。」

 

「ひとり親の人たちに対しては『ひとり親ごはん会』として、地域とのつながりが希薄にならないように、リアルに話をしながらご飯を食べて、ひとり親同士の繋がりも作ってもらいます。

経済的に困っている人には、食品を渡せるようにしました。」

 

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(写真:今年の夏に元住吉のアルペンジローで開催された「ひとり親ごはん会」の様子 Ash撮影)

 

さらに、そこから発展したのが『はらぺこ宅急便』です。

正枝さんは以前、養護施設を卒園する高校生に向けた料理教室を開いていましたが、コロナ禍により頼れる親や身内の支援がない非正規雇用で働いている人たちにしわ寄せがきていることを感じ、月に2回食品を届けるシステムを作りました。

 

「一人暮らしをしている子どもたちに実家から仕送りが届くようなイメージでやりたかった。」といいます。

 

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(写真:月に2回寄付によって集まった食品を送る『はらぺこ宅急便』。木月子どもキッチンHPより)

 

「たまたま生まれ育ったところで最初からハンデを負う若者たちと若い時の自分を重ね合わせる気持ちがありました。

私はたくさんの人々に助けてもらったので、ほんの少しでも私にできることがあればしたいと思いました。」

 

 

地域のなかで広がっていく縁

 

フルタイムでお店を開けるのをやめたことでもうひとつ新しく始まったのが、「木月シェアキッチン」のシステムです。

週末にお店を開けられていなかったため、時間貸しでお店をやってみたいという人に貸し出してみると好評で、あれよあれよとやりたいという人が現れました。

今では5種類のさまざまな業態のお店が開いています。

 

以前に、コスギーズ!の記事でご紹介した土倉康平さんが開くクラフトビールバー「HAZY MANIA」もそのうちのひとつです。

 
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(写真:「HAZY MANIA」は、木月キッチンで隔週金曜日に開かれている。 Ash撮影)

 

土倉さんは正枝さんと初めて会った時の第一印象を、「いろいろな人に『ギブ』をしている人だなと眩しく感じました。」と話してくれました。

そうなんです、正枝さんは自分自身が充電して貯めた光を惜しげもなく今必要としている人に分けていくようなところがあります。

 

「お店って閉まっていると寂しがるんだそうです。

いろいろな人が出入りして、この場を楽しんでくれるのが一番いいですね。

木月キッチンにしても木月こどもキッチンにしても、いろいろな人が出入りしてくれるから自分だけだったらとてもできないことができていて心から感謝したいです。」

 

 

正枝さんの青写真は、フレームを超えて

 

長年、多くの人が出入りしたこの木月キッチンですが、来年には次のステップを見据えて移転を考えているそうです。

 
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(写真:いつかまた時間が出来たら写真を撮ってみたいという正枝さん)

 

「週2回なんて趣味でやっているんでしょと言われちゃうこともありますが、そんなつもりはありません。

木月キッチンとシェアキッチンできちんと収益を出して、木月こどもキッチンでは社会が必要としていることをやっていきたいと思っています。

それは私の両輪でどちらがなくなっても動かないんです。

ソーシャルビジネスというのかな、共感してくださる方がいたらどんどん協力いただきたいです。

いずれは養護施設出身の子どもたちが、働いていけるような仕組みづくりにも取り組めたらと想い描いています。」

 

いま、正枝さんの手にカメラは握られていなくても、その笑顔からは陽光が降り注ぎ、しっかりと私たちに青写真を焼き付けます。

その絵が浮かび上がってくる瞬間、私たちはかつてオーストラリアで正枝さんが感じたような純粋な喜びに打たれます。

そこには、正枝さんにしか見えていなかった暗がりに咲く、美しい花々が写っているからです。

固く閉じた蕾の花も、正枝さんの温かい眼差しに照らされて、フレームをはみ出しながら、枝葉を伸ばし始めています。

 

 

お店情報

Brown rice+ 木月キッチン

住所:神奈川県川崎市中原区木月2-3-15

電話番号:044-572-3214

営業日:水曜日(17時〜20時30分)

木曜日(11時30分〜14時、17時〜20時30分)

木月シェアキッチンの営業日と内容はサイトで確認してください

公式HP:https://sites.google.com/site/kizukikitchen/

アクセス:東急東横線「元住吉」駅より徒歩2分

 

ライター プロフィール

Ash

俳優・琵琶弾き。

「ストリート・ストーリーテラー」として、街で会った人の物語を聴き、歌や文章に紡いでいくアート活動をしている。

旅とおいしいお酒がインスピレーションの源。

 

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