この街大スキ武蔵小杉

コスギーズ

武蔵小杉で活躍する人を紹介します!

2022.10.31

B-BOY KATSU ONE (石川勝之)さん

コスギーズ!とは…

利便性や新しさだけでなく、豊かな自然、古きよき文化・街並みもある武蔵小杉は「変わりゆく楽しさと、変わらない温かさ」が共存する素晴らしい街です。そんな武蔵小杉の街の魅力をお届けするべく、この企画では街づくりに携わり、活躍している人をご紹介していきます!

 

2024年パリオリンピックでオリンピックの正式追加種目となったブレイキン(ブレイクダンス)。黎明期から第一線のダンサーとしてその発展に貢献し、今や日本の若手を牽引する“レジェンド”となったB-BOY KATSU ONE(カツワン)こと石川勝之さんは武蔵小杉の出身。川崎・溝の口がブレイキンの聖地として知られるのは、彼をはじめ多くのB-BOY、B-GIRL(ブレイクダンサー)が、まだ認知の浅かったこのダンスのクールさに目覚め、練習場所を求めて駅構内のウインドーを鏡代わりに踊っていたことに端を発しています。

 

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「それは、僕であり、あなたであり、私です」

 

ブレイキンとは何か、という問いに、KATSUさんはそう答えました。長身細身、理知的な匂いさえ漂わせ、その瞳はとてもスマートに光ります。ダンスのジャンルの話をするならばそれは「ヒップホップ」に属しますが、フォーマットとしては「格闘」であり、明確に勝ち負けを競います。そして、ストリートスポーツが全般的にそうであるように、それは「遊び」の延長でもあります。子どもたちが遊びながら何かを学んでいくように、ストリートで躍動する身体は楽しみの中で、いつの間にか自身の輪郭を形作っていくと言えます。

 

「子どもの頃は、冒険ばっかしてましたよ、友達とチャリで東京タワーまで行ったり、多摩川を遡ってどこまでも行けるか試したり。」

 

いたずらっぽく笑うKATSUさん。小学、中学校時代も武蔵小杉で過ごしたそうです。今は生活の大半が海外との行ったり来たりの日々ですが、帰ってきて小杉の風景を見るとホッとすると言います。最近の街の発展ぶりについては、「なくなってしまうものに関してはちょっとさみしく感じる時もある。でも、誇らしいと思うことも多いです。すごいだろ、この街、楽しいでしょ?って。」「平和公園、小杉ホルモン、今井湯、あの辺りは全部テリトリーです。」と、地元への愛着を滲ませます。

 

身体を動かすことは昔から好きで、高校まではバレーボールを真剣にやっていました。親が教員だったこともあり、体育教師になろうと日体大に進みますが、大学1年の夏に全てが変わりました。昔テレビで見て憧れたダンス甲子園に影響を受け、気晴らしのようにやっていたダンスの世界が広がり、のめり込んだのです。貪欲に踊れる場所を探すうちに大学だけでなく、あらゆる所で仲間を見つけました。溝の口も、通学途中に見つけて入り込んだそんな場所の一つでした。出会った先輩の一人が、夏休みにロスの大会に出ると聞いて、同道することに。そこで、全てが変わったと言います。

 

「見るもの全てが衝撃的でした。それこそ空港に降り立った時の匂い、空の色。あれだけたくさんの人種がいるってことにも。大会の会場では、ブラウン管でしか見たことがない技をやっているやつを目の当たりにして、ああ、本当にこんな動きができるんだって。」

 

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大会の会場では、本選以外にもそこらじゅうで小さなダンスバトルの輪ができていました。中で踊っているのはいわゆる「上手いやつ」ばかりではなく、下手であろうが遠慮せず、輪に飛び入って踊る。誰もがそれを認めて、尊重する。KATSUさんは矢も盾もたまらず、知り合ったばかりの「友人」とオープンエントリーの競技に参戦しました。注目、歓声、身体と身体が対話する感覚。遠いもののように憧れていた舞台に立っているという実感があったそうです。

 

世界の中のB-BOY

 

「魔法にかかったような無敵感」とKATSUさんはその状態を表現します。海外にいる時の自分の状態。アメリカでは色々な人と出会いましたが、みんなB-BOYだというだけですぐに打ち解け、友達に。どこに行っても、誰と会っても、踊っているというその一点において認め合い、道が開けるのです。その状態が忘れられない、その「無敵」の期間を少しでも長くするために、KATSUさんは大学の休みを全て海外で過ごすことにしました。アメリカで軽く挨拶をした程度だった相手を頼り、オーストラリアへ。この地はその後、KATSUさんにとって第二の故郷と親しむ場所になります。

 

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空港に着いた時に、シドニーの空の色に驚いたそう。ロサンゼルスともちがう青色の澄んだ空。ケバブ店で注文した時に、英語をもっと話したいという渇望が湧きました。3週間毎日が新しい出会いばかり。誰もがみな、B-BOYだとわかると、「Sure」と肩を叩き、家に泊めてくれ、練習場所に行けばすぐに友達ができる。この人たちにまた会いたい、恩返しをしたい、そんな思いで休みのたびにKATSUさんはオーストラリアに通いました。

 

4年目はオーストラリアを放浪。大陸はデカい、当然資金は尽きます。賞金が出る大会があるよ、と聞いてウェリントンに向かい、そして、その国際的な大会に出場し、見事優勝。オークランドでのX-Gameにも勝ち、B-BOY KATSUの名はまさしく、世界に躍り出たのです。もう勢いは止まりません。

 

「大学4年だし、日本では就職が決まっているやつばっかりでした。教職の免許は取ったけど、学校の先生っていうのは、社会をほとんど経験しないでやれるもんなのか、という疑問も持っていましたね。夢を追ったこともないやつが、生徒に『夢を持ちなさい』とか言えるんだろうか。アメリカも、オーストラリアも、行ってみたら自分の想像とは全然違ったんです。」

 

自分の実体験からしか語れない、と思ったKATSUさん。まだまだ世界を見てみたい。親に頼み込んで1年の猶予をもらいました。バイトをして、お金を貯めて韓国、ベトナムなどのアジア圏やヨーロッパにも行きました。ダンスがどこにでも連れて行ってくれるのです。あまりいいイメージがなかった国も、行ってみてその国の人が好きになると一気に心が近づきます。まだこの頃はB-BOYのコミュニティが小さかったこともあり、どこの国に行っても、ダンスの現場にいれば世界中がつながっていると感じられたそうです。

 

道なき道−ブレイキンのプロフェッショナルへ

 

プロになりたいと思ったきっかけは、日本に戻っていた時。世界選抜のメンバーだったKATSUさんが、その称号であるメダルを身につけてバイトのカウンターに立っていたのを、あるラッパーが見て驚き「あのチームの人がなんでバイトなんかしてるんだ。」と。自分の中のどこかでストッパーが外れました。日本にブレイキンの「プロ」などというものがあるわけもない、ダンス

 

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でどこまで行けるのかわからない、だけど行くところまで行ってみよう、と舵を切ることに。

 

ミュージックビデオへの出演や、レッスンはそれなりのお金になりました。アーティストのバックダンサー、ダンス教室の主催、なんでもやりましたが、どれもピンとこない。もともと人に教えることは好きでしたが、やる気のある生徒はタダでも教えてやりたいと思っていたそうです。お金を稼ぐからプロなんじゃない、もっとこの世界を開拓しなければ。ダンスがあるから今の自分がある、と言えるだけのこのカルチャーを、他の人にも伝えられるだけの土壌をつくらねば。

 

日本人はカッコいいものが好きで、きっちりしています。海外に誇れるさまざまな美徳もあります。それなのに奥ゆかしい。海外に出て、その魅力がはっきりとわかりました。そんな日本に生まれ、世界とコネクションしてやってきた自分にしか開けないものがきっとあるはず…。当時はまだその形ははっきりと像を結んでいませんでしたが、手を伸ばしそれを掴もうともがきました。いち日本人として西洋文化に飲み込まれ、ダンスを含めて全てをゼロに戻すチャレンジもした。

 

オリンピック、そして…

 

KATSUさんはもう、輪の中心で踊るダンサーではなく、その輪を生み出す側として世界から必要とされ、彼のあとを追う若手から目標にされる存在になっていました。海外から日本に戻ってきたKATSUさんは、長く考えていた構想を実現するために会社を設立しました。自分が本当に伝えたかったのは踊りの技術ではない。なぜ踊るのか、本当に大切にしたいものは何なのか。そこには「コミュニティ」がいつでもありました。そのコミュニティを育てるための会社。それは、33歳まで踊り続けてきたKATSUの一つのメタモルフォーゼだったと言えます。そして、その挑戦はYou Tubeやインスタグラムの追い風を受けて、花開きました。

 

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「まさか、2024パリオリンピック種目になるとは思わなかった」

 

自らが突き進んできた道の先に、突然現れたビッグイベントについてKATSUさんは素直に述懐します。公益社団法人日本ダンススポーツ連盟の理事となり、2024パリオリンピックに向けて、大会運営の組織づくりや、協賛集めにも奔走。新しく加わる競技なので、ルールの策定や審査項目などにもKATSUさんのアドバイスが必要とされます。想像するだけでも大変そうですが、KATSUさんの目は未来を見据えて輝いています。

 

「パリだけじゃなくて、今後もオリンピックの種目として定着していくように、ロサンゼルスへも動き始めています。定期的に世界大会があるっていうのは、競技の発展にとってはとても意義があること。2028年からの国体(国民体育大会)にはダンススポーツが採択されることが決まったので、国内の若手選手たちが目標を得て勢いづくと思います。」

 

ロサンゼルスの先には、KATSUさんのブレイキン人生を方向付けたあのオーストラリアでのオリンピックが待ち受けます。その大舞台でブレイクダンサーたちが技を競い合える日がくるかどうか、今は小さいB-BOY、B-GIRLたちの将来も、KATSUさんの双肩にかかっています。

 

40回目の夏に

 

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KATSUさんの人生で40回目の夏がやってきます。「夏は短い。そして、あと限られた数しかやってこない。ネガティブなことを考えている暇はない。やりたいことを全部やりたい。」そう言うKATSUさんの眼差しは、自転車で多摩川をどこまでも遡った少年の頃のものとおそらく変わらないでしょう。

やりたいことはいっぱいある。今までの恩返し、貧困地域の子どもたちに学校をつくること、キッズが交流できるコミュニティづくり、教員だってまだやっていないことのひとつ。すべてやり遂げて、最後に自分のやってきたことを本にまとめて、客観的に自分の人生を振り返るのが夢だそう。

 

後輩たちからは常に“他にないスタイル”と称賛されてきたKATSUさん。どんな動きもブレイキンのインスピレーションになります。飛行機を見上げても、煎餅を食べていても。カッコいいとか面白いと思ったものを自分流にアレンジして、世界をあっと言わせるオリジナリティを生み出してきました。見るもの、聞くものが全てダンスに。誰かが、お前のそれイイね、それカッコいいね、と言えば、それがまた新たな動きになるのです。ブレイキンはコミュニティ、それが一貫してKATSUさんのスタイル。だから冒頭の問いの答えは、ブレイキンは僕がいて、あなたがいて、そして私がいるから存在する。

そう、「ブレイキンはコミュニティだ。僕であり、あなたであり、わたしたちだ」

 

 

プロフィール

KATSU ONE 石川勝之(いしかわかつゆき)

国内外の大会で賞を勝ち取り、世界のブレイクダンスシーンに影響を与える現役B-BOY。

株式会社I AM取締役。公益社団法人日本ダンススポーツ連盟ブレイクダンス部部長/理事。

ストリート文化だけでなく、教育など多岐にわたるアプローチを展開する。

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ライター プロフィール

ASH

ライター業のほか、琵琶を弾き歌い、語り継ぐことをライフワークにする俳優。旅と出会いとおいしいお酒がインスピレーションの源。

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カメラマン プロフィール

岩田耕平 

25歳からの14年間で1万人を超える家族をフォトスタジオで撮影。15店舗のフォトスタジオで撮影トレーナーを務め、個人ではカメラマンとして人と人をつなぐ撮影を展開。

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